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2009年12月26日

A Course In Miracles 「What it says」と構成

A Course In Miraclesより
この本の概要を説明している What it Says の内容を紹介してあります。

What It Says

真実は揺らぐことはない。
真実でないものは存在していない。
ここに神のやすらぎがある。


A Course In Miracles(奇跡のコース)は、真実と真実でないもの、つまり
(永遠の真実である)叡智と、(現実での体験を通して学んだ)知覚を
見分けることからはじまります。

叡智は真実であり、ひとつの法のもと、愛である神のもとにあります。
真実は普遍で限りなく、確実なものです。
それは気づかれることがなくても、
けして変わることはありません。
それは神が創造したすべてに当てはまり、
そして神が創造したものだけが真実です。
叡智は学ぶことを超えています。
なぜなら叡智は、時間やプロセスを超えたものなのですから。
始まりも終わりもなく、叡智はただ存在しています。

その一方で知覚の世界は、時間と変化の世界で、始まりと終わりがあります。
欠乏、損失、分離や死に基づき、その上に築かれた世界です。
知覚によって作り上げた世界は、与えられたものではなくて、
あなたが習得したものです。その性質から不安定です。
解釈して感じ取るということから言っても、確実でも正確でもありません。

叡智と幻覚には、2つのまったく違った思考システムがあります。     
神の叡智の世界では、愛である神に創造されたものは 
一つの意志を共有しています。

けれど知覚の世界では、あらゆるものが分離したり、
反対の意志を持っているという信念のもとに互いに、
そして神の意志とさえ葛藤し続けます。
知覚は、幻影に取り込まれた者の信念を
満足させるようなことしか気づかせないため、
幻想によって見たり聞いたりすることがまるで現実のように感じられます。
これが、知覚の生み出した幻想の世界をつくりあげています。
そして知覚の世界は、それが真実ではないからこそ、
防御や逃避によって守られることを必要とし続けています。

知覚の幻覚に捕まったとき既に、
あなたは夢の世界に閉じ込められています。
あなたには助けが必要です。なぜなら、あなたが感じるもの全てが、
夢にリアリティを与えて現実だと思い込ませているのですから。

愛である神はすでに答えをもたらしています。
悪夢から、愛に満たされた我が家へのただ一つの救いの出口。真の救い手。
ふたつの世界を繋ぐことこそが、 夢の中にまで響き渡っている
神の愛の声とも呼べる、神の聖なるスピリット
(the Holy Spirit・聖霊)の働きです。
幻覚の世界に気づきながら、幻影のリアリティを信じ込まずに
旅の目的地、愛だけの現実を覚えているため、
聖霊は夢に捕まったあなたの心を導くことができます。

幻影を現実だと信じてしまった私たちに 考え方をひっくり返す方法、
習得してしまったカン違いを忘れる方法を教えて
夢から脱出するのを助けるのが聖霊のめざすところです。。
この、考え方の転換をもたらすのは、
聖霊の素晴らしいやり方である「ゆるし」です。
そして奇跡の学習コースには、コースなりの
世界の定義の仕方をしているのと同じように
コースなりのゆるしの定義があります。

私たちが観ている世界は、
心の内にあるものがが映し出されているに過ぎません。
心を覆っている考え方、願い、気持ちに基づき、
世界を映し出しています。

私たちは先ず心の奥底を見て、
それからどんな世界の姿を見たいかを決めます。
外側に観たい世界を映し出していながら、
自分が観ている世界の元になっている想いが 
自分の内にあることを忘れています。
そして自分が見ている世界を真実だということにしてしまうでしょう。 
さらに私たちは見ているものが何なのかと解釈して
意味を付けて受け取ることで、
その投影によって見る姿を真実だということにしてしまいます。
・・・略・・
私たちは、この全てを「ゆるす」(幻想としてのエゴを手放す)ことを
学ばなければなりません。それは私たちが「善良」だからとか、
「いい人」だからではなく、私たちが観ている全てが、
真実ではなくて架空の幻想、幻だからです。

私たちは、からまった防御の膜によって、世界をねじ曲げてしまい、
そこに実在するはずの無いものを見るようになってしまいました。

私たちがその間違いに気づくことを学ぶにつれて、
このはかない世界を気にしなくなり、
「ゆるす」ことができるようになってきます。
・・・略・・・

愛こそが実在する全てなので、愛への呼び声である聖霊の眼差しからは、
愛の不足という思い込みは、 罰せられるべき悪などではなくて                    ただ訂正されるべき的外れな思い違いなのです。
私達が感じる満たされない心や、弱さ、不完全さは、
幻想の世界全体を覆う「不足している」という
強い思い込み中毒によって生じています。

こうした見方から眺めてみると、
私達は自分の内で欠けていて足りないと感じるものを、
他者の中に探そうとしてしまいます。・・略・・
しかし、実際はそれこそが夢の世界で愛を見失う原因であり、
これ以上重大なカン違いはありません。
愛は、どんなものであだろうと、求めることなどありえないのですから。

心だけが、本当にひとつに繋がり合うことができます。
そして愛なる神と一つになった者の心を傷つけることは不可能です。
・・略・・
その無条件の愛の心は、滅びたことも失われたこともありません。

愛の神の延長として創造されたままの 本来の自分(神の子)は、
何も求めたりしません。
『本当の私達』は永遠に完璧で、安全で、愛されていて、
愛しているのだから。
『本当の心』は、手に入れようとするのではなくて共有し合おうとします。
『真の心』は自分の内にあるものを隠して投影しようとはせずに、
ただ延ばし拡げて 展開しようとします。
『本当の心』は何も求めず、ただ溢れる豊かさに気づいているので、
繋がり合おうとします。
・・・略・・

(人間関係について)
聖霊の愛への信頼のもとで(他の人と)関わり合うなら
その関係はこの世で最も神聖なものになります。
つまり、天国(完全な愛という我が家)へ帰る道を示してくれる奇跡になるのです。
・・・略・・
愛の聖霊は、「ゆるし」と
夢から目覚めるための完璧なレッスンとして 関係性を活用してくれます。
関わり合いのひとつひとつが
相手を「ゆるす」ことで、自分自身を「ゆるす」チャンスにもなります。

そして 関わり合いのたびごとに、心に聖霊を迎え入れることになり
神(真の愛)の想い出を迎え入れることになります。

(身体について)
知覚とは身体の働きなので、身体を通して、見て聞くだけです。
・・略・・
身体はまるで 自分で動きを作っているように見えますが、
実際には、心が注意を向けていることに反応しているだけです。
もしも、 心が何らかの攻撃に身体を使おうとするなら
病気や老化や疲労にさらされることになります。                                     
ですが、心が聖霊の目的を受け入れるなら
身体は人々とコミュニケーションをして心を繋げ合うのに
便利なものになり 必要なだけ丈夫でいられるし、
その役割が終わる時には穏やかに横たわるのです。                    

知覚の世界の他の全てと同じように
身体自体はいいものでも、悪いものでもなく中立です。  
エゴの目的に使うか 聖霊の目的に使うかは
ただ、あなたの心が何を求めるかしだいなのです。

(聖霊の声について)
愛の聖霊の声が遠くて分かりにくく感じるのは、
エゴの声の方が騒々しく聞こえるからです。
けれどこれは実はまったくの逆なのです。
間違えようの無い明らかさと、絶対的な魅力をもって語りかけています。

自分を身体そのものだと思うことを選ばなければ、
聖霊の解放と希望のメッセージに、あなたが気づかないはずがありません。
・・・略・・・
その優しい光は、全ての物事を別の視点から観せてくれるます。
その光は永遠の叡智から湧き上がる思考体系を反映していて、
愛そのものである神へ還ることを可能にしてくれるだけでなく、
愛への帰還を確実にしてくれます。

誰かに対しての悪意とみなされていたことは、
助けを求める声、ひとつになりたいという叫びとなります。
・・・略・・・
防御は解かれます。 なぜなら攻撃というものが存在しないところに
防御というものは必要ないのですから。

兄弟姉妹の求めは、私達自身のものになります。
なぜなら、愛である神のもとへの旅を、みな一緒にしているのですから。
彼らなしで行こうとすれば、私達は道を見つけることさえ出来ないでしょう。。

「ゆるし」とは、愛だけが存在する天国には、もはや必要ありませんが、
ただ、この世界では 「ゆるし」は
私達の思い違いを手放すには欠かせない修正です。
聖霊にゆるしを頼むのは、ゆるしの唯一の方法です。
それは与えることと受け取ることが全く同じという、
天国の法則を反映しているのですから。
・・・略・・・
「ゆるし」こそ、私達が想い出す方法です。
「ゆるし」によって、世界についての考え方を修正すれば、
ゆるされた世界は、天国の前庭へと変わります。
その世界の慈悲によって私達はついに
私達自身を本当にゆるすことができるのですから。

もう誰にも罪を着せようと見張る必要がなくなることで
私達は解放されます。

すべての兄弟姉妹の内にキリスト(愛である本当の姿)を感じることで
私達は自分の内にキリスト(愛である本当のあなた)がいることに気づきます。

私達は全ての誤解を忘れて、 私達を引きとめる過去もなく
ついに私達は、愛である神を想い出すことができます。

ここから先は 学習のおよぶ範囲を越えています。
私たちの準備ができたのなら
神へと戻る最後の一歩を
神自身が抱き取りに来てくれます。

  **訳についての説明は続きを読むからご覧ください。



ピカピカ   ふたば   ピカピカ   ピカピカ   ふたば   ピカピカ

現在、出版されているA Course In Miraclesの原書を開くと
以下の内容になっています。

まず、どのようにACIMが誕生したかと
構成や内容を大まかに説明する序文のような以下の内容があります。
・How it Came ・What It Is ・What It Says
 始めの2つはヘレンさんが書き、What It Saysは、内なる声によるものだそうです。
 
続いて、ACIMは現在全3部構成となっています。
Book one  本編 全31章
Book Two   WORKBOOK FOR STUDENTS LESSONS1~365
Book Three  MANUAL FOR TEACHERS


さらに原稿完成後に再びヘレンは「声」を書き取り
Book Four  SONG OF PRAYER (さとわブログに一部掲載)
Book Five  PSYCHOTHERAPY  が完成しましたが、
これは現在本には入っていませんが、左サイドバーの「原書」から読めます。
さらにヘレンさんは詩集The Gifts of Godも出版されています。

これまでさとわの「心のワーク」ではBook1からの内容を主に伝えいます。

今日は 前書きのような、けれどこれだけでもディープな・笑
What It Saysをご紹介しました。 
これは内なる声がこれからACIMで何を伝えようとしているかを語った内容です。

これは全部を翻訳していらっしゃる田中百合子さんの訳にはなく、
私は1年以上前にどこかのネット上で探してきたのですが
(どこか忘れてしまいました、すみません☆汗)
その訳と原書を比較して掲載します。A4で約7枚程なので
携帯で読まれている方も考慮し今回は抜粋で掲載しました。
(全文はさとわ店内にファイルをおきますのでさとわで読んでね。)
~と書きつつほぼ全文載せちゃったので、携帯の方は根性で見てください☆

今回はknowledge を「叡智」とし、「神のもとにあり続ける永遠の真実」
という意味で使い、知識や人智とは区別しています。
これと比較されるのがperception=「知覚」ですが、これは
「現実だと私たちが思っているこの世界での出来事を通して得た知識」の意味で
先の「叡智」は真実、「知覚」は真実ではなく幻想としています。
また、初日と同じ意味でrealもここでは実存や現実ではなく「真実」としました。
( ) 内はわかりやすいように私が書き足したもので
原文にはありませんことをお知らせしておきます。



Posted by アトリエさとわ at 07:08